『平家物語』の中の法然
2018-05-03


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このブログの「『平家物語』を楽しく再読」というタイトルの中で日本文学の古典『平家物語』の覚一本を新しく読み始めたことを報告しています(2018年2月19日)。

あれから3か月過ぎましたが、なかなか進みません。ようやく約75%くらいの進行具合で、第10巻まで来ましたが、その10巻中の「戒文」の章で浄土教の開祖である法然上人が登場します。

時は寿永3年(1184年)2月。一ノ谷の合戦で源氏方に捕えられた平氏の首領のひとりである平重衝(たいらのしげひら)が、屋島に退いていた平宗盛(たいらのむねもり)らに、三種の神器の返還を要請する手紙を出すものの、あえなく拒否され、失意の中での鎌倉移送(当然、その後の極刑が予想されます)を前に、源氏方に頼んで法然上人との会合が実現します。

三位中将と称された重衝は、平清盛の五男でこの時まだ27歳。内大臣の平宗盛(清盛の三男)も37才。現在からみれば信じられないくらい若いのですが、出家し僧侶になることが現世の厳しい政治権力闘争からの逃げ道のほとんど唯一の方法だった時代、源氏・平氏の武者たちも仏教僧の教えを受けていたのでしょう。法然は浄土教の開祖(この時は51歳)です。当然、『平家物語』のこの場面でも「大事なのは信心の心であり、一心に祈れば罪深き者も救われる」―と説いて、重衝を出家させます。

このエピソードは、貧しい民衆も罪を犯した人間も来世にいくことが可能とした浄土教の教えが貴族・武士階級にまでひろがっていたことを示しています。平安末期から鎌倉時代にかけては現代の日本に続く社会体制や人間関係の基本ができた時代といわれます。一方で江戸時代のようながんじがらめの「忠孝思想」とは異なり「昨日は昨日、今日は今日」という現実的な生き方があった時代でもあります。『平家物語』や『今昔物語』の面白さの一因はこの自由奔放さにあります。

いつまで続くのかはわかりませんが、しばらくはこの中世の世界へのタイムトリップを続けてみるつもりです。なお、上の図は「法然上人行状絵図」の一部で、知恩院ホームページより転載しています。

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