三貫清水と筑井氏続き
2023-12-26


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先日の記事で、さいたま市の鴨川を歩くという「まち歩き」の途中で目にとまった古墳群について書いていますが、古墳探しの続きは後日のこととして、この鴨川については個人的ないくつか思い出があります。私は小学校入学前くらいから20代後半まで旧大宮市の日進というところに住んでいました(現在はさいたま市北区日進町)。日進というのは旧大宮市の西北で川越線という(以前はかなりローカルな)単線の路線で川越方面に1つ目の小さな駅が中心の静かな住宅地でした。とはいえ、私の子供時代はなんと60年以上前のこと、周辺はほぼ純農村地帯で雑木林と原野がひろがり、もう、今では信じられないくらい自然度の高い場所でした。


当時は空前のベビーブームでしたから、通った小学校も多分、雑木林を切り開いて新設されたばかりだったようで最初は校歌もありませんでしたが、なんといっても周囲の豊かな環境が思い出です。登校下校の時間はかなり長かったのですが、毎日コースを変えての遊びながらの帰り道─思い出せば楽しい学校生活だったと思います。


先に記事に書いた鴨川はこの学校から遠くない場所を流れていて、周辺には水田や小川もあり格好の遊び場所。そんなところには必ずきれいな水の湧き出す場所があり、透明な池の中には小魚やタニシやザリガニがいました。ひとりでいると街の騒音もまったく聞こえない静かな世界で、こういう場所でじっとしているのが好きでした。


当時、この付近にはこうした小さな自然エリアが無数にあったと思うのですが、これが大きく変わっていくのは昭和30年代からの農業の機械化・農薬の使用と40年代に入ってからの自動車の普及と大きな舗装道路の建設です。特に、東京と新潟方面を結ぶ国道17号線と国道16号線のバイパス道路の建設がこの付近の風景をあっという間に変えてしまいました。


30歳台になってから、忙しさと住む場所が変わったこともあって、この付近を訪れるのは年に数回も無くなっていたのですが、10数年ほど前から、大宮の博物館のユーザー団体やその他の趣味グループの「まち歩き」に参加するようになり、いろいろな場所に出歩く中で、あるときその企画のひとつとして、埼玉県内を通る鎌倉街道の枝道である志木方面から浦和・与野を通って上尾方面に達するという古道を歩くというのがあり、それに参加すると何と上記の小学校の頃の通学路のひとつがその道だったのです! この古鎌倉街道が走っているのは私の母校の日進北小学校から鴨川方面に向かってほんの数百メートルの林の中ですが、この林と鴨川までの湿地が「三貫清水」という自然保護地域に指定され小さな公園として残っていたのです。こうした自然は、先に書いたようにこの付近にはかなりたくさんありましたからことさら大事にされていたとも思わないのですが、どうも私の記憶にはないのですが、この「三貫清水」という場所は当時から知られていたもののようです。以下は地元の広報誌からの転載です。


<(日進町の北側、鴨川の東側に隣接した林の)南北中央に「鎌倉街道」が通り、その西側の低地に、水深1m程度の沼地が2箇所あり、これらを「三貫清水」と呼んでいる。名前の由来は―「江戸城や川越城などを築いたことで有名な太田道灌(1432年-1486年)が、この辺りに狩りにきた時、土地の人がこの清水を汲んで茶をたてて出したところ、「とてもうまい」といって三貫文(今でいうと50万円ほどのお金)の褒美を下さったとのことで、「三貫文の値うちのある湧き水」という意味で「三貫清水」という名前が付いたといわれている―。雑木林の中央を通る「鎌倉街道」は、戦国時代、軍事や交易(商売)などで重要な役割を果たしており、街道の横には、武士が泊まる宿や、いろいろな物を取り引きする市場などが設けられていた。その鎌倉街道の一本が三貫清水を通っており、太田道灌はこの街道を馬で駆けてきて、三貫清水に立ち寄ったものと言われている>



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